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写真論09 何が見えるのか

写真論09 何が見えるのか

おはようございます。
 朝食後、スロウ「北海道 来たるべき未来を見つめて」のための撮影を行う。通常であれば1時間もあれば完了するのだが、今回は別な目的もあった。このため、撮影は6、70カットに及んだ。12時40分頃、ひと通りの撮影を終える。肩と背中が凝った。昼食後、30分ほど昼寝。3時再開。撮影データのコピーとセレクト。スロウに使用するカットを選び出し、配置する。気づくと6時になっていた。原稿執筆日にしようと思っていたのに、そこまでたどり着かなかった。僕の仕事は明らかに2日遅れている。残り5日間で挽回せねば!

認識、解釈、表現

撮影しながら、そして写真をセレクトしながら考えていたこと。それは「この画家にはどんな世界が見えているのだろう?」ということでした。
 目に見えないものを描いている。目に見えるものも描いているけれど、作品の多くは目には見えないもの。けれども、それがちゃんと見えているらしいのです。「見える」というよりも「浮かぶ」というほうが正確なのかもしれません。目に浮かぶ。いや、違うなぁ。心に浮かぶ。あるいは、もっと違うところに浮かぶのかもしれません。どこに浮かんでいるのかはわかりませんが、自分の裡に浮かぶものを描き出していく。そのような作品群。
 それらを複写していく作業を延々行っていたのでした。楽しいとか、単調とか、辛いとか、腰が痛いとか……、そういった気持ちとは別に、撮影しながら不思議な感覚が僕のもとに訪れました。
 「やがて僕にもこの世界が見えるようになる」
 なぜか、そんな考えが頭に浮かび、不思議にもそれを確信していたのです。少なくとも、昨日の時点では確かに確信していました。今は、一晩眠ったためか、確信は薄らぎ、少し曖昧な感覚になっています。
 抽象画のことはまったくといってよいほどわからないのですが、興味深い世界のようです。現実と自分の裡とを行き来しながら描いていくのでしょうか? どのようにして「浮かぶ」のか? ここがよくわからないところ。取材の際には「描き始めると浮かんでくる」という話でした。
 僕は現実にとらわれすぎているためか、この「浮かぶ」あるいは「見えないものが見える」という感覚がまだよくわかってない。写真を撮りながら、見えないものを見ようとするわけですが、写真とは明らかに異なる点があります。それは被写体が存在するかどうかという点。被写体がなければ形にすることのできない写真。これに対し、現実に存在しなくても形にできるのが絵画。この違いは非常に大きい。
 僕の理解の仕方が正しいか間違っているかはわかりませんが、写真家は現実を認識し、自分の解釈を加えて撮影し、一定の制約の下で表現しようと試みる。認識→解釈→表現。この3段階です。
 このうち、どの段階に力を入れるのかによって、その写真家の作風とか個性といったものが決まってくる。僕は長年「解釈」を中心に据えてきましたが、近年では「認識」に近づいているような気がします。目に見えたものをそのまま撮ることが多い。これは即物的な撮り方をしているということではなく、固定的な解釈から自由になりたいと思い、解釈のウエイトを軽くしようと考えているため。ちょっとわかりにくい書き方をしてしまいました。目に見えるものを素直に受けとめてみよう……。そんな意味合いです。

ディテールの謎

目に見えるものを写真に撮る。写真表現においては、被写体(目に見えるもの)が存在しなければなりません。この一点において、写真家は現実の世界とつながりを持っている。どんなに不思議な作風の人であっても、存在しないものを表現することはあり得ない。
 現実とのつながりが強いがゆえに、被写体から影響を受けやすいというのが写真の特性のひとつではないかと思います。常に被写体と自分との関わりについて考えている。そして、自分の世界に引っ張り込んで、自分の土俵で表現しようとするか、はたまた、被写体の力に身を委ねて、自己表現を控えめにするか選択しているのです。
 写真家には認識タイプ、解釈タイプ、表現タイプの3パターンがあるのではないかと思います。もちろん、タイプを使い分ける人もいます。表現タイプの人の中には、目に見えないものを追い求めて、抽象画的な表現を試みる人もいる。写真といっても、ずいぶんその範囲は広い。だから、写真なら何でも撮れるというわけではありません。僕も自分の苦手分野の写真については、ほぼ素人以下の写真しか撮ることができません。
 運よく、目に見えないものが見えるようになった写真家は、一体何をどのように表現することになるのでしょう? 写真の特性からいって、被写体の力を借りなければ、何も形にすることはできません。
 自分が「目に見えないものが見えている」というわけではありませんが、おそらく、見えている写真家は「現実の中に埋め込もうとしている」のではないかと想像しています。埋め込むというより、気配を漂わせるといった、少し曖昧なものであることが多いでしょう。僕自身も、そうしたことを意識して創作することがあります。
 それは作品全体からというよりも、作品の一部分から感じ取ることが多いに違いありません。写真はさまざまな制約の中から生み出されるもの。一部分に埋め込む(漂わせる)だけでも、けっこう大変なことなのです。
 僕が写真作品を鑑賞する楽しみのひとつは、埋め込まれた謎や作者の心の裡を漂わせている部分を発見すること。これはほんの些細な一部分であるほうがおもしろい。わずか数ミリ四方の小さな部分に謎が埋め込まれている……。そんな発見があると、思わずうれしくなるものです。これはもしかすると、写真にしかない楽しみ方といえるかもしれません。
 抽象画と写真は対極にありながら、その鑑賞の仕方にはちょっとした共通項があるような気がします。

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