
「意識と無意識」( 1982年) (c) Atsushi Takahara
おはようございます。
昼間は栗山で雑誌「スロウ」の取材。人生の意味と不思議さについて考えさせられました。夕方は2017年度経営指針研究会総括報告会。一年かけてまとめ上げた経営指針の発表。今期は人数が多かった関係で、ひとり7分という短い発表時間。それでも経営に対する考えや思いが伝わってくる発表でした。
人生においても、企業経営においても、ときとして理解困難な奇妙な出来事がやってくるものです。理不尽な……と思うこともありますし、幸運としか言いようのない出来事によって、窮地から救われることもある。ですから、長い目で見ると、人生も経営もバランスがとれていると言ってよいのかもしれません。ただ、昨日の取材の話は深くて、そして長期間にわたるもの。3世代かけて乗り越えてきたという話。「バランスがとれている」と軽く語れるレベルのものではありませんでした。
考えてみると、企業経営にもそうした側面があるのかもしれません。一代で築き上げたものは基盤が弱く、実際には3代くらい、時間を要するもののような気がします。
数10年、長くとも100年ちょっとという人生の中で、成し遂げることができる仕事は限られてしまうもの。大きなビジョンを描けば、自分の代では実現不可能ということになる。志を継ぐ者、真の後継者が企業には求められます。
そのように考えていくと、自分の志は自分ひとりのものではなく、もっと大きな存在から与えられた志ではないかと思えるようになってきます。そして、自分の思い描く人生とはちょっと違った生き方になる……。ここが人生の興味深いところといえるのかもしれません。
思い通りにならないのが「思い通り」なのである
写真家の活動を企業経営と同じように考えるのは、かなり無理があるでしょう。
しかし、「自分の思い描いた通りにはならない」という点では一致しているのではないかと思います。「いつも思い通りの写真に仕上げている」という写真家もいるかもしれませんが、多くの写真家は思い通りにならないところに写真という表現手段の魅力を感じているはず。被写体そのもに手を加えることのないストレートフォトグラフィであればなおさら。「思い通りにならない」という消極的姿勢ではなく、「思い通りにしない」というところに写真的人生のおもしろさがある、と僕は考えています。
思い通りにならないことが「思い通り」なのだ。僕は企業経営者になって数年たってから、ようやく自然にそう思えるようになっていきました。
よく考えてみると、自分のつくり出す写真においては、ずっと以前からたどり着いていた当然すぎる結論でした。目の前に広がる風景を自分の思い通りにはしない。実に当たり前のことです。目の前の風景を肯定的に受け入れ、自分なりの解釈を加えるからこそ、写真を撮ることができるのです。
目の前の風景、あるいは目の前に現れる出来事を受け入れることによって、写真家は写真を撮ることができる。前向きな写真を撮るには前向きに受け入れる。前向きな人生を送るにには、前向きに出来事を受け入れる。前向きな企業経営をするには、やはり現状を前向きに受け入れるということになります。
前向きに受け入れ、肯定的な解釈を加えて撮った写真には、写真家の意図を超えた不思議なものが写っていることがあります。ここが写真のおもしろさのひとつであり、僕が神秘的に感じる部分です。
写真家は被写体をしっかり見てカメラを向け、シャッターを押すのですが、「すべてが見えているわけではない」のです。木を見ても、一枚一枚の葉っぱをすべて見ているわけではない。見ている場合もありますが、たいていは全体を見ているか全体の中に一部を見ているものです。
そうすると、どんなことが起こるのか? 自分の意図しなかったものが写り込むことになる。それが一枚の写真に不思議な影響力を及ぼすことがあるのです。
写真家は主題に集中しようとする傾向がありますから、細部に気を配っているつもりであっても、見落としてしまうことが多い。そして、案外見落としたところに隠し味的なおもしろみがある。まあ、このあたりは写真家の性格や作風によって大きく異なるところでしょう。僕の場合は偶然写り込んだ何かに期待することが多い。
僕らが意識的に思考、行動しているのはほんの数%であって、大半は無意識によってコントロールされている……。そんな話を聞いたことのある人は多いと思います。
写真を撮るという行動も、実は無意識に依存する部分が大きいに違いありません。自分としては意識し、現状を認識しながら撮影するのですが、よくわからず撮ることのほうが多いような気がします。何となく気になる。これも撮影においては立派な動機といえます。
なぜ、こんな写真を撮ったのだろう? その意味がわかるのは、数日後か数ヵ月後、もしかすると数10年後かもしれません。撮影者にはその意図がわからず、第三者によって写真の価値が発見されるというケースもあるでしょう。
19世紀末から20世紀初頭にかけてパリの街を撮ったウジェーヌ・アジェは、死後しばらくたってから評価された写真家。写真家本人の意図を超える何かがそこに写り込んでいたのです。アジェが30年間で撮りためた写真は約8000点。「芸術家の資料」という看板を掲げ、生活のために撮った写真ですが、ひたむきに撮影し続けることで無意識が何らかの形で写真に影響を与えたのでしょう。制作から100年以上たった今日、改めてアジェの作品を見ると、時間の経過によってさらに別な味わいが加えられていることに気づかされます。
目の前に広がる現実の風景も、自分が数10年歩んできた人生も、ずいぶん複雑なものであって、簡単に「こうだ」と語ることはできないものです。したがって、現実から秩序を見いだし、写真を撮ることができたとしても、それが100%写真家の意図通りの写真となることはないでしょう。
必ずといってよいほど、「わからない何か」が写り込んでいて、それが見る人によっては写真の主題を超える意味を与えることにもなる。写真家としても、自分の意図通りの結果になることだけを望んでいるわけではありません。自分の生み出した作品から「気づかなかった何か」を発見したいと思っているはず。写真家は自分の意図を超えた写真が現れることを、常に期待するものなのではないかと思います。