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第20話 写真の意味と価値

第20話 写真の意味と価値

「untitled」(2015年、Gallery・DOT) (c) Atsushi Takahara 

おはようございます。
 昨日は約1万字原稿を書きました。このくらい書くと、僕の場合どうしても入力ミスが増えてしまいます。プリントアウトし、読み返してみると、あり得ないような間違いをいくつも発見します。校正って、本当に大切な仕事ですね。
 3月も最終週を迎えました。年度末。印刷会社としてはこの1週間が勝負といえます。我が社の皆さん、よろしくお願いします。
 そんな中、僕は夜眠る前に本を読み出したら、止まらなくなってしまいました。体験型ビジネス書というべきジャンルの本ですが、「体験」があまりにも強烈すぎる。そして、その一部は僕の人生と少しだけ重ね合わせることのできるものだったのです。「そういうことだったのか」と思いながらページを進めていくことになりました。

制約があるから愉しい

実体験に基づいて書かれた本の中には、自分の体験と重なり合うものがあります。何気ない体験ものものあれば、壮絶な体験のものもある。他人の体験と自分の体験をそのまま重ね合わせることはできません。けれども、他人の体験を通じて、自分の体験の意味を考えることは十分可能なことであり、多くの人は人生の中で何度も、もしかすると無数に体験していることでしょう。
 書籍、映画、直接見聞きした話……。これらを通じて過去の出来事の意味を知る。あるいは、自分が今置かれている状況について把握する。他人の体験だからこそ、気づきやすいという側面もあるでしょう。人間、自分自身のことには案外気づかないことがあるものです。
 「写真を見る愉しみ」も第20話となり、今回で最終回ということになりました。やはり、僕にとって写真は「楽しみ」ではなく「愉しみ」。そう感じながら書き進めていくことになりました。
 撮ることをもっと楽しめたら……と思うこともあるのですが、僕はやはり考えながら撮るタイプのようなのです。そして、「楽しんでいる自分」よりも「愉しんでいる自分」のほうが自分らしく、心地よいと感じてしまいます。こうした生き方は人生の最後まで続くのかどうか? こればかりはわかりません。
 ノンフィクション(体験型ビジネス書を含む)は、事実がベースになっているため、リアリティがある。フィクションにはフィクションおもしろさがあるのですが、強いて言えば「楽しい」と「愉しい」の違いでしょうか。フィクションは楽しく、ノンフィクションには愉しいという言葉が似合うように感じます。もちろん、単純に分類はできるものではありませんが……。

写真には、「現実の世界の一部を写し取る」という、避けて通ることのできない制約があります。被写体を自ら作ってしまうという手法(コンストラクティッド・フォトグラフィ)もありますが、これは現代美術的なアプローチ法。写真家は現実をそのまま受け入れるところから、撮影に臨むことになります。写真表現は基本的にノンフィクションなのです。
 ところが、以前にも書いた通り、現実(事実)をそのまま撮影しても、写真は現実通りに写るわけではありません。そこに撮影者の主観が入り込むことになる。主観を極力排除して撮った写真がリアリズム写真。主観を強調して撮ったものは主観的写真(主観主義写真)ということになります。見た目に違いはあっても、主観と客観が混じり合うというところに写真のおもしろさがあると考えてよいでしょう。
 写真家は現実の風景を見ながら、自分にとっての真実にたどり着こうと努力します。ちょっと無理はあると思いますが、写真家の活動をひと言に集約すると、「事実を真実化すること」と言ってもよいのではないでしょうか。
 たとえリアリズム写真であっても、目の前の事実を「自分の目で見て」写真に再現しているわけです。見る対象を選択している。そこには必ず主観が働いているということになります。

被写体がなければ写真に撮ることができない。この絶対的ともいえる制約があるからこそ、写真はおもしろく、興味の尽きないものとなっているのだと思います。
 ほとんどの人は現実の体験を通して、物事を考えたり、人生そのものに意味を求めようとします。しかし、自分ひとりの視点から物事の全体像や人生の意味を見つけようとしても、なかなか捉えきれないものではないかと思うことがあります。
 写真を含むあらゆる芸術や表現物は、考えるためにヒントやイメージするための素材を提供してくれるものです。
 さまざまな表現手段がある中、僕が写真に魅せられてしまったのは、「現実の制約の中から生み出される表現物」であるという点に他なりません。大袈裟に言えば、「自分の人生は自分の自由にはならない」という制約と「被写体は自分で自由にコントロールできるものではない」という制約。両者に共通するものを感じ取ったのでしょう。
 僕は比較的早い段階から、「人生に自由を求める」よりも「人生には自由な解釈がある」と考えるべきではないか、ということに気づいていました。自分の人生にいずれ訪れる避けがたい制約の存在に、無意識レベルで気づいていたのかもしれません。
 それが僕に写真という表現手段を選ばせることになったのかどうか? このあたりは何ともいえません。
 ただひとつ言えることは、写真的なものの見方や写真的アプローチをすることによって、風景の見え方がずいぶん変わるということ。これは間違いありません。実際にカメラを手にして、写真を撮るかどうかは問題ではありません。写真的に風景や物事を見る。あるいは、写真作品を見ることによって、自分自身の本心や真実の姿に気づく。そこにこそ、写真の価値があるのではないか? 
 より多くの方々に、写真生活を愉しんでいただきたい。心からそう願っています。

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