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第2話 謄写版の時代

第2話 謄写版の時代

おはようございます。
 昨日はインデザインを使った作業とスロウの商品イメージ撮影。僕の仕事の多くは、パソコンに向かうか、デジカメを操作するかのどちらか。当たり前の話ですが、30年前とはずいぶん異なっています。
 我が社の入口には昔使われた写植機が鎮座しています。これが何の機械なのか知っている人は少ない。印刷会社の社員でも、「写植」「版下」を知らない人が増えているに違いありません。たぶん、1990年代後半から我が社では使われなくなったはず。したがって、版下を知っているのは社歴20数年以上の人ということになるでしょう。

自前のヤスリと鉄筆を入手

今日の話はもっと古い話、50年近く前にさかのぼります。僕の記憶はほとんど残っていないため、一部は想像して書くことになるでしょう。それでも、できるだけ記録に残しておきたいと思っています。
 ソーゴー印刷の歴史は、1954年、昭和謄写堂の創業から始まるとされています。「謄写版(ガリ版)から始まった会社」というのは、子供の頃から聞かされていました。創業者である父が、「原紙を貼る絹枠にゴムをつけ、天井とつないでいた」と言っていたのを覚えています。一枚印刷するとゴムで枠が自然に持ち上がり、すぐに次の紙をセットすることができる。ちょっとした生産性向上のアイデア。謄写印刷は一枚一枚ローラーを使って刷るという印刷方式。印刷済みの紙を速やかに外す。そのスピードが生産性の鍵だったはず。と言っても、僕がその現場を見たことはないのですが……。
 僕が謄写印刷に触れるようになったのは、たぶん中学1年生だったと思います。もしかすると、小学校5、6年だったかもしれない。記憶が曖昧です。ただ、小学生の頃は壁新聞をつくっていたという記憶が鮮明に残っています。大きな模造紙にマジックで書いていくのですが、ずっとマジックを使って文字を書いていると、気持ち悪くなってくる。
 これは体に悪いに違いない……と子供ながらに思っていました。印刷工場のインキのにおいはマジックに比べると、はるかにいいにおいがします。今考えると当時のインキも相当体に悪い成分が含まれていたと思います。物心ついた頃から嗅いでいたので、いいにおいだと信じ込んでいたのでしょう。
 ついでに言うと、子供の頃はインキを練って遊ぶことがありました。今もプレス課の人はインキを練って特色をつくることがあると思いますが、僕は50年くらい前に経験済み。当時は「遊んでいた」という認識でしたが、もしかしたら「児童労働」だったのかもしれません。印刷した紙が裏移りしないよう合紙(あいし)をはさむ……という「遊び」もさせてもらっていました。

話は謄写印刷に戻ります。子供の頃は「謄写」という言葉は知らず、「ガリ版」と言っていました。中学に入ると、僕はガリ版の魅惑的世界に引き込まれることになりました。
 僕はここでひとつの勝負に出ます。と言うほど大袈裟ではありませんが、自分専用のガリ版と鉄筆がほしくなったのです。学校にも一応道具は揃っていました。しかし、学校にある道具では僕の表現したい新聞をつくることができないのではないかと思っていたんですね。変な中学生でした。
 ガリ版(ヤスリ)は4面セットになっているものがほしくなりました。同級生たちはヤスリについての知識がまったくなく、X面と方眼の使い分けを知らないのです(当たり前ですよね)。だから、学校のヤスリはちょっとへたっているように、僕には感じられました。
 僕は「斜A、斜C」(線やイラスト用)と「方眼B、方眼C」(文字用)がセットになっているヤスリを買ってもらいました。鉄筆は筆先を替えて、さまざまな文字が書けるタイプ。あとは原紙と修正液があればOK。ただし、印刷機だけは学校のものを使うことにしました。僕は単に自宅で仕事をしたいだけだったのかもしれません。
 謄写印刷でつくった学級新聞、学校新聞には独特の味わいがありました。壁新聞の時代とはひと味違う。自分はこのままジャーナリストになるのではないかと思うほどでした。もう少し早く生まれていたら、活動家になっていたかもしれません。そんな時代の空気でした。

学校の中で印刷好き、新聞好きだったのはたぶん僕ひとり。報道部(学校新聞を発行していた)もありましたが、仲間と一緒に新聞をつくったという記憶はなく、自己完結型(?)の新聞を発行していました。新聞も印刷も好きな世界ですが、「共同作業が苦手な自分には向いていないかもしれない」と思うようになっていました。
 そんな頃だったと思います。僕の中には次なる物欲の対象が目の前に現れていました。それはタイプライター。
 僕のひとつのパターンは「これが手に入ると、自分の人生が一変するのではないか?」と思い込んでしまうこと。人生で2番目にやってきたビッグウェーブ。それがタイプライターを手に入れることでした。これも案外首尾よく購入できました。
 この頃、印刷会社ではまだ和文タイプが使われていたのでしょうか? 僕にはわかりません。僕は多くの印刷会社がたどった道を、少し遅れて追体験していたようです。
 といっても、入手したタイプライターはもちろん英文。印刷用ではありません。憧れのタイプライターはオリベッティでしたが、購入したのは丸善でした。僕にとっては十分すぎるほどの機種。これで何をしたのか? 印刷ではなく、文通に使いました。当時は文通が流行っていたと思います。日本郵便友の会協会に入会し、5、6ヵ国の人たちと文通した記憶があります。一番長続きしたのはスリランカの人でした。僕の英語力は中学3年をピークにその後衰えていくことになります。今では見る影もありません。
 話は逸れましたが、僕の本格的な印刷生活は中学校から始まりました。印刷+情報発信。今の生活とまったく変わりません。
 そして、高校で写真と出合ったことで、少し回り道をすることとなりました。印刷生活という本題から離れてしまうかもしれませんが、そのあたりを明日書いてみたいと思います。

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