
おはようございます。
次世代幹部養成塾と会議が3本。夕方6時半からは2017年度経営指針研究会ミニ報告会。スロウ編集部のK氏にとっては帯広勤務最後の日。4月4日から当社初となる札幌勤務を経験することとなる。配偶者の転勤に伴うテレワーク。これがうまくいけば、よき先例となることでしょう。
それにしても、去年から今年にかけては動きが激しい。我が社もそうですが、まわりを見渡しても急速に環境が変化しつつあるようです。
デジタル化の波
僕がソーゴー印刷に入社した2000年も、おそらくそうした変化の激しい時期だったのではないかと思います。2000年までは20世紀、2001年から21世紀ということになりますが、確かにいろいろな意味で世紀の変わり目でした。
僕はそれまでのTシャツ+短パンという仕事姿から一変し、ワイシャツ+ネクタイの勤務に変わりました。たまに、短パンで休日出勤すると不思議な視線を感じることに……。東京では出版社でも広告代理店でも短パン姿で訪問したものですが、ここ帯広ではそれが通用しないとわかりました。ネクタイと長ズボンに慣れるしかありません。
2000年、ソーゴー印刷でも大きな変化が起こっていました。僕の記憶ではこの年だったと思うのですが、工程管理システムのデジタル化とCTP(コンピューター・トゥ・プレート)の導入、この2つがほぼ同時期に行われたのです。
僕が入社した5月には、すでにブルーの初代iMacがずらりと並んでいました。そして、制作室にはおそらく当時道東初だったと思われるCTPが鎮座。今では当たり前の光景ですが、2000年当時としては先進的な印刷会社でした。
社屋も新しく、新築から5年目というところ。しかし、これが曲者なんですね。よく「自社ビルを建てると会社が傾く」と言われますが、僕が入社した頃は我が社にとって大変困難な時期にありました。そんな時期にあるのに、よく工程管理のデジタル化とCTPを同時に進めたものだ……と、後になってから僕は妙に感心することになります。世紀の変わり目というのが心理的に影響を及ぼしていたのかもしれません。
その頃のことは誰にも話しませんでしたが、僕自身も苦難の時期を過ごしていました。ソーゴー印刷新社屋完成の2年後、1997年に僕らも東京で自社ビルを建てていたのです。同じく「自社ビルを建てると……」という状況。まさか自社ビル完成から3年もたたないうちに帯広にUターンするとは考えてもみませんでした。
そんな激動の時期に目にしたCTP。これによって、プリプレス(印刷の前工程)はほぼ完全にデジタル化されたことになります。それ以前にはフィルム製版という工程がありましたし、もっと前には、版下を製版カメラで撮影するという工程を経て製版フィルムがつくられていました。2000年頃、我が社には「版下→製版カメラ」(アナログ)、「データ→フィルム製版」(半デジタル)、「CTP」(デジタル)の3種類のプリプレスが混在。アナログの在版フィルムをどのようにデジタル化したらよいか? これが課題として浮上しつつある頃でした。
DTPはデスクトップ・パブリッシング。CTPはコンピューター・トゥ・プレート。まったく別な言葉ですが、両者を並べるとDとCの違いだけなので関連がありそうに思えます。実際、関連は大いにあります。
DTPによって「写植・版下」という仕事は、ほぼ完全に消え去ることになりました。大都市には写植・版下を生業とする会社もありましたから、業態転換するか廃業するか、どちらかの道を選ぶことになったはず。1990年代の話です。
次にやって来たCTPの波は2000年代。CTPでは「製版フィルム」が不要となり、データから直接刷版を出力できるようになりました。これにより、製版会社の仕事がなくなってしまったわけです。
DTPとCTP。デジタル化という点ではどちらも同じですが、印刷会社にとって影響の受け方という点で大きな違いがあります。
DTPは印刷業界だけに起こった波ではなく、むしろ、デザイン関連業界や一般ユーザーまで含む広い範囲に影響を及ぼした革命的出来事でした。これにより、極端に言えば、素人でも「印刷用データ」が作成できるようになった。印刷会社にとっては大変な脅威。DTP普及によって、印刷会社の付加価値は次第に低下していくこととなったのです。
一方、CTPにはどんな意味があったのか? CTPは印刷会社に置かれるべき設備ですから、印刷の生産性向上やコスト削減(製版フィルムが不要になった)につながるもの。つまり、印刷会社にとっては付加価値向上という結果をもたらすことになりました。
ただ、2000年代前半の大きな変化の中で、大変な時代がやって来たことに気づき始めていました。確か、2001年頃だったと思います。印刷工業組合の集まりの中で、札幌の某製版会社の社長が僕に向かってこんな話をしたことがあります。
「次は印刷会社の番だよ」
1990年代には写植・版下業、2000年代には製版業が仕事を失うことになった。次は印刷業だという予言(?)でした。当たらずとも遠からじだな……。そう思いながら聞いていました。
その当時、僕はまだ印刷人として十分な自覚はなく、自分の位置づけが明確ではありませんでした。子供の頃から一貫して印刷生活を送ってきたという認識も持っていなかったのです。
ただ、「大変な時代に突入している」という思いと「印刷業はこのままではいられない」という確信に近い考えを持つようになっていました。僕の中では、次第に「将来に向けての道筋をしっかり立てていかねば」という気持ちが高まっていくことになりました。ただ、どうすればよいのかさっぱりわからないという状態。写真家的にたとえるならば、「暗室の中でセーフライトすらついていない状況」(つまり真っ暗)のように僕は感じ、心細くなっていました。