
おはようございます。
原稿作成に専念した一日だった。午前中は「北海道 来たるべき未来を見つめて」の見出しとキャプション。1点だけ撮影。写真の入れ替え。入稿態勢が整った。午後は「記憶の中の風景」の画質調整作業。インデザインに配置していく。あとは頭がクリアなときに短い文章を書くだけ。最後の仕事は旭川取材分のAI文字起こし。プリントし、ひと通り目を通す。
夕方、そろそろ仕事を終えようと思ったそのとき、宅配便の荷物が届く。「重たいですよ」と言われて細長い箱を受け取る。これはどう見ても鮭だ。中川町のIさんから送られてきたものだった。鮭を三枚におろす。人生初の経験をすることとなった。箱にはオスとメス、2匹入っていた。我が家に出刃包丁があることも初めて知った。研いでから使ったが、おそろしく切れ味が鈍い。おろし方はYouTubeで学ぶ。そんな僕におろされた鮭をちょっと気の毒に思った。市販品とは明らかに異なる形状の切り身が大量につくられた。アラもたくさんできた。これから秋が深まる。十勝鍋を作ることになりそうだ。筋子は醤油漬けにして冷蔵庫へ。
刃を研ぐ
我が家になぜ出刃包丁があるのか? それはM氏によると、僕の実家を片付けた際に持ってきたとのこと。最後に出刃包丁が使われたのはいつのことなのか? 少なくとも20年、たぶん30年くらい使われていなかったのではないかと想像します。僕の記憶の中に出刃包丁が登場するのは、40数年前。これはどう考えても、鋭い切れ味にはなりそうにありません。
切れない出刃包丁を使ってなかば力尽くで鮭をおろしながら、僕はなぜかスティーブン・R・コヴィーの「7つの習慣」について考えていました。日本でもベストセラーになった自己啓発書。その中の第7の習慣が「刃を研ぐ」なんですね。
「刃を研ぐ」とは、肉体、精神、知性、社会・情緒の4つの側面から刃を研ぐということ。メンテナンスを怠り、酷使を続ければ、やがては使い物にならなくなってしまうというのです。切れない刃で躍起になって問題に立ち向かおうとしている。そんなイメージが頭の中に浮かんできます。
今朝の日本経済新聞の1面コラム「春秋」に、「コロナ感染者の集計にはオフィスの老兵・ファックスが大車輪の活躍。『デジタル敗戦国』と酷評される始末」と書かれていました。これは菅新政権の「デジタル庁新設」を受けてのコラム。今後、急ピッチにデジタル化進められていくことになるのでしょう。
ファックスは20数年前まではすごく便利な機械でした。便利に使いすぎて、メールを使うことに出遅れた人が多かったのかもしれません。むしろ、ファックスが普及しなかった国のほうが一気にデジタル化していったのでしょう。日本はある意味、刃を研ぐのを怠ってしまったんですね。
ファックスに限らず、日本の中には刃を研ぐことなく切れ味の鈍くなった分野がたくさんあるようです。残念ながら、わが印刷業界にもそのような側面がある。ここを急速に変えていかないと、切れない刃で次々やってくる難問と格闘しなければならなくなる。
今朝は案の定、筋肉痛とともに目覚めることとなりました。鮭をおろしただけで筋肉痛。刃を研ぐ、あるいは成長のための自己投資を怠った人や企業の場合は、どのような痛みを感じることになるのか? だいたい想像することができます。我が社も痛みを味わっているところ。もっと頻繁に研がなければならない。そんな気持ちになってきました。
仕事の中に「刃を研ぐ」を組み込めばよいのだ。そのようにも僕は考えています。たとえば、取材という仕事は日常的な業務の一部でありながら、「刃を研ぐ」活動でもあるんですね。取材先からさまざまな考えややり方を学ぶことができます。「刃を研ぐ」といっても、方法はセミナーに参加することだけではありません。我が社の業務全体、各所に「刃を研ぐ」を組み込めばよいのではないか? そんなイメージが湧いてきています。
