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第15話 忘却と記録

第15話 忘却と記録

おはようございます。
 北見、弟子屈で取材。たっぷり写真を撮ったような気がします。今回は2泊3日の予定。いつも何かしら忘れ物をするのが常。撮影機材だけは忘れないよう、気をつけていますが、やはり今回も忘れました。ちょっとしたもので助かったと考えるべきでしょう。
 人間は忘れる。だから「記録」が重要となる。記録するためのもっとも有効な手段として「印刷」が誕生した。印刷は時代とともに形を変え、従来の印刷の定義では説明がつかなくなってきています。僕の捉え方では「情報の大量複製」はすべて印刷。この考え方を他人に押しつけることはできませんが、我が社の人たちには僕と同じように印刷を定義づけしてほしいと思っています。

記録を印刷媒体に集約させる

 人間はなぜ忘れるのか? まあ、動物も忘れることがあるでしょう。しかし、「忘れる」という現象はとても人間的なもの。その意味で言えば、僕はもっとも人間的な人間かもしれません。ブログの中で何度も語ったような気がしますが、僕の忘却力は並外れたものなのです。
 情報流通量が爆発的に増えているという話が、10数年前よく話題に上りました。今ではあまりそうした話をすることはないですね。爆発レベル以上に情報が増えてしまったからでしょうか。
 今の時代、情報というものは、いちいち覚えておくものではありません。必要なときに取り出せばよいもの。だいたいみんなそんな意識を持つようになっているのではないかと思います。自分の脳みそのメモリーには限界がありますから、外部記憶装置に頼るしかない。外付けハードディスクのような仕組みを自分のまわりにいかに築いていくかが重要。きっと、そんなふうに情報を管理しているひとが多いでしょう。
 この点、今の若手の人たから見習うべきことは多い。彼らは情報の検索が非常にうまい。たとえば、車にカーナビが付いていても、決まってスマホで目的地を検索します。カーナビよりGoogleマップのほうが早くて正確だと知っている。必要な情報を見つける方法に敏感なのです。
 検索という行動は「今自分に必要な情報を手に入れること」に他なりません。必要な情報を短時間で入手する。この点については、インターネットによってものすごく便利になりました。
 その一方、「記録」という点ではネットよりも紙媒体のほうが信頼度が高いのではないかと思います。物質として残すという安心感がある。グーテンベルクの42行聖書も現存していますし、それよりはるか昔の百万等陀羅尼(現存する世界最古の印刷物)もある。電子媒体が1000年後も同じように存在し続けるのか、僕にはちょっとわかりません。したがって、紙媒体と電子媒体の両方に残しておくことが、現時点ではもっとも確実なのではないかと思います。

 40代後半に差し掛かった頃から、僕は「記録」というものについて意識を向けるようになっていきました。印刷も写真も記録のための媒体なのですが、僕はどちらかというと「記録」よりも「表現」に関心があったのです。自己表現のための手段として写真があり、その延長線上に印刷がありました。
 しかし、あるとき表現豊かな写真よりも、記録に徹した写真のほうが100年単位で考えると高い価値を持つのではないか……という考えが浮かんできました。何100年たっても価値を持ち続ける作品ももちろんあるでしょう。だが、その一方で何気なく撮った記録写真が100年後に重要な意味を持ち、後世の人に何かしらの影響を及ぼすこともある。
 写真にしろ、印刷にしろ、記録という側面から改めて考え直す必要があると、ここ数年強く感じているところです。印刷人としてはずいぶん遅い気づきではありますが、これから先の僕の人生は「記録」に比重が置かれることになるでしょう。
 主観を盛り込みながら記録する。近年の僕の写真の撮り方、文章の書き方を思い起こすと、そのようにしてさまざまな物事を記録しようとしています。主観を排除するのではなく、その時点での自分の思いや考え、ものの見方、哲学といったものを記録していく。そこに写真や印刷の価値がある。そのおもしろさや意義に気づいた人は、一生印刷人(または写真人)として歩んでいくことになる。

 「忘れる」という人間的な現象によって、「記録する」というニーズが生まれ、印刷や写真、その他の記録媒体が発展していくことになりました。20世紀末からはインターネットの普及により、情報は爆発レベル以上の規模で量的に拡大し、かつてないほど「ちゃんとした記録」が求められるようになっているのではないかと思います。
 デジタル化が進む中、時代と逆行するかのようにフィルムカメラに目覚める人(おもに若い人)がいます。僕は単なる懐古趣味だと考えてきましたが、少し認識を改めました。ネガや印画紙という確かな記録媒体を残すことに意味があるのではないか? そう思うようになったのです。
 デジタル化もペーパーレス化もビジネスを効率的に進めていく上では欠かせないもの。ですが、数10年後、数100年後の人たちにとって、本当に役立つ記録は実はアナログな媒体のほうかもしれません。
 僕個人としてはもうフィルムカメラに戻ることはありませんが、デジカメで撮ってプリント(印画紙ではない)として残すことに、もう少し熱心に取り組もうと思います。たぶん、僕の写真は印刷媒体に集約させることになるでしょう。それは従来のような写真集を出版するという形だけではなく、もっと多様な媒体が考えられそうです。
 印刷のクオリティは印画紙のプリントレベルにまで高まってきていますから、「印刷媒体が最終的な作品である」と位置づける写真家も増えていくのではなかろうか? 
 今の時代は、アナログ、デジタル、さまざまな情報伝達及び記録手段が混在しています。情報も記録もバラバラに収められている。検索することによって必要な情報を得ることは簡単ですが、すべての情報(特に過去の情報)が得られるわけではありません。ひとつのテーマについて体系的にまとまった情報を得るには、やはり出版物という形態がもっとも適しているのではないかと思います。
 情報を散在させず、印刷物(特に冊子)としてまとめる価値が見直されつつある。ここ10年くらいの間に、そうした認識が広がってきたような感じがします。僕の気のせいでしょうか?

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