第26回 AIと主観的文章

第26回 AIと主観的文章

おはようございます。
 午前10時半、某プロジェクトのミーティング。前回は自宅開催だったが、参加者数が上限ギリギリ。密になるのを避けるためZOOM会議となった。昨日は大雪だったという理由もある。午後はパソコンの前に腰を落ち着けるも、思ったほどの成果は生み出せなかった。ある計画書の骨格をまとめる。ほかに事務的作業。できることを最大限進める。

ワープロ誕生時に似た状況

2018年に出版した「写真家的文章作成技法」の最初のほうを読み返してみて、自分の考えが少しも変わっていないことに気づきました。
 日本語を使って喋っている人であれば、「書けない」と思っている人でも必ず書けるようになる。「書けない」という思い込みを取り除くための本でもあります。
 僕は30年以上も仕事で文章を書き続けてきたのに、今も「思い通りに書けないなぁ」と思うことが多い。書き上げて読み返してみると、文章としての稚拙さが気になったりもします。でも、僕は一応プロなので、「書けない」の意味合いが異なります。普通に「文章が書ける」という場合は、「ちゃんと意味が通る」とか「メッセージが伝わる」ことが大切なのです。完璧を目指すなら、プロの編集者に校正してもらえばよいだけの話。
 とはいえ、書き慣れていない人に原稿を依頼するのは大変です。話し言葉なら十分すぎるほどの表現力を持つ人でも、文字で表してもらうと何が何だかわからない、ということがあります。
 技術の進歩には目覚ましいものがあります。今後数年のうちに、AIが文章を作成するようになることでしょう。日本語は手強いでしょうが、英語ではすでに実用レベルに達しているに違いありません。日本語の精度が高まるのも時間の問題。そうなると、ライターという職種の人は仕事の一部を失うことになるのかもしれません。
 ライターや編集者など、文章を書くことを仕事としている人は、大きく意識を変える必要があるのではないかと思っています。「情報をわかりやすく伝えるだけならAIのほうが優れている」という時代がやってくる。人間が書くことの必然性がなければ、仕事は失われるわけです。「人間が」というより「自分が」ですね。文章の上手下手ではなく、「誰が書いているか」が問われるようになってくる。
 したがって、人間の書く文章は主観的な傾向が強まっていくことになるでしょう。拙著のタイトルに当てはめれば、「写真家的文章」ですね。「自分はこのように見た」というものが文章で表現されていなければなりません。客観的事実を押さえる必要はありますが、事実の羅列ではAIと変わらなくなるのです。
 AIには視点というものがなく、ただ意味が通るように文章を生成しているに過ぎません。その文章生成機能が強化されていけば、もしかすると「主観らしき表現」も可能になってきそうです。ですから、人間が書く文章には人間にしか書けないような鋭い視点、ユニークな視点が求められるようになっていく。書き手は自分の人生経験のすべてを引き出しながら、命懸けで書くようになっていくのではなかろうか? スロウの原稿を書いていると、ときどきそんな気持ちになることがあります。僕はただの一度も、小手先の技術で書いたことはありません。これは自分は門外漢であるという意識を未だに払拭できずにいるからでしょう。技術力では見劣りがするのです。
 そう遠くない将来、AIを使いこなしながらハイレベルな主観的文章を生み出す書き手(プロ・アマ両方)が現れてくると予想しています。文章力に自信がない部分はAIに任せ、それに主観を加えていく……といった文章作成技法。たぶん間違いなく、そのようになるでしょう。
 35年前、僕はワープロという機械を使うことで、文章が書けるようになりました。手書きではまともな文書は書けなかった。あと数年すると、「AIを使うことで文章が書けるようになった」という人が出現するに違いありません。
 「文章作成技法」という言葉が意味を持たない時代がやってくるはず。そうなると、自分は何を考え、どう生きているのかが最重要となってくる。自分の頭で考えることなく生きている人は、AIに操られるようになっていくのでしょうか? ちょっと恐ろしい感じがしますね。

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高原淳写真的業務日誌