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第4回 性善説と性悪説

第4回 性善説と性悪説

おはようございます。
 初夏を思わせる気候ですね。社内はホットです。そんな中、午前中にミーティング2本、夕方には帯広経営研究会4月例会が行われました。例会テーマは「13の徳目朝礼」。会員企業の中では採用する会社が増えているようです。我が社の場合は独自の進化(?)を遂げてしまっているため、今さら「13の徳目」には変えられないだろうな……。ただ、Y社の事例をビデオで見て、一部のエッセンスを加えることは可能かもしれないと思いました。

人間の中にある弱さ

社長は重要だと思っているが、社員の多くは重要だと思っていないもの。それが朝礼でしょう。朝礼が不要だと思っている社長はほぼいないはず。朝礼は実施していなくても、何らかの形で朝礼的な要素を社内で制度化したいと考えていると思います。
 社員の場合、朝礼に対する認識はいくつかに分かれるでしょう。ひとつは、社長同様、その必要性を感じている人。次に、あってもなくてもよいと思っているタイプ。そして、できれば参加したくないと思っているのが第3のタイプ。
 この第3のタイプの人たちへの対処法が大きな課題のひとつといえそうです。業種は違っていても、だいたい同じような傾向があるようです。
「朝礼に出ている暇があったら早く仕事がしたい」
「朝礼の場で発言するのが苦手。できれば参加したくない」
 これが朝礼に出たくない2大理由のような気がします。したがって、長年朝礼がなかった会社や、あったとしても業務連絡程度だった会社の場合、「13の徳目朝礼」など教育的要素を含む朝礼には抵抗感を覚える人が必ず出てきます。若手の人はすんなりなじんでも、ベテランの一部は反発したり、朝礼を避けようとする……。我が社にも若干そうした傾向はあるでしょう。
 それはある意味自然なことだと思います。
 自分の気持ちとしては自然であっても、自然に任せるままでは人は成長しにくいもの。多くの人は人生経験を通じて学んでいるはずです。子供の頃は勉強するより遊んでいたいもの。それが自然。しかし、自然に任せて勉強しなかった人の中には、大人になってから「しまった」と思う人もいます(もちろん後悔しない人もいるでしょうが)。
 ここで言う勉強とは、狭い意味ではありません。スポーツ、文化、工芸、芸術など幅広いジャンルを含む勉強のこと。これはどんな人間でも避けて通ることのできない道。
 会社員になった場合は、その会社の文化やしきたりにはある程度合わせなければなりません(会社によって求められる程度は異なる)。我が社は比較的自由度が高い会社ですが、朝礼には参加が求められます。たぶん、ほとんどの会社はそうなっているでしょう。

そこで、朝礼に出たくない第3タイプの人は、「現場に早出することが多い」という事例が複数社から報告されました。大義名分をつくるのです。直行直帰が許される部署、職種の場合にはこういうことも起こりうる。
 朝礼がなぜ大切か? そして、朝礼に参加するとどんなメリットがあるのか? ここを理解してもらわない限り、朝礼参加率100%は実現しない。
 そこで性善説と性悪説という話になるのですが、性善説・性悪説は「人を信じるべきか、疑ってかかるべきか」という単純なものではありません。
 性善説は、「人間にはもともと善の端緒が備わっており、それを発展させれば徳性にまで達することができるとする説」。性悪説は、「人間の本性は悪であり、たゆみない努力・修養によって善の状態に達することができるとする説」。
 性善説と性悪説は正反対の説ではなく、ほとんど同じ意味ではないかと思いませんか? 「発展させれば徳性に達する」と「たゆみない努力・修養によって善の状態に達する」。どちらも、努力を継続すれば、好ましい状態に達するという考え。ひとりの人間の中には善も悪も存在します。そのどちらに焦点を合わせるか? 孟子や荀子の説はきっと奥が深いのでしょうが、僕にはそれだけの違いのようにも思えます。
 多くの企業経営者は性善説と性悪説(またはY理論とX理論)の間で心が揺れ動くことでしょう。先日聴いた講演では、「社員を全面的に信じてはいるが、レジの上にはWebカメラを設置している」という話が出てきました。これは合理的、現実的な判断ですね。どんなに信じても、あるいはどんな善い人であっても、過ちを起こしてしまう可能性を人は持っている。だから、過ちを起こさないような仕組みを作ることも企業には求められる。

30年くらい前でしたら、映画やドラマを見ても善悪が比較的はっきり分かれていたと思います。ところが、今は映画でも現実の世界でも、善と悪が入り乱れていますね。それがきっと本来の姿なのでしょう。「水戸黄門」のような世界はどこにもありません。
 今は複雑で混沌としていて、非常にわかりにくい。わかりにくいから「信用しない」と考える人がいますし、わかりにくいからこそ「人を信じよう」とする人もいます。我が社はできるだけ後者の立場に立って経営していきたいと考えています。ただ、信じた結果、自社を危機的状況に追い込むわけにはいきませんから、「レジ上のカメラ」のような仕組みは必要と言えるでしょう。信用していても、予防策はある程度必要なものなのです。
 人は信じるに値する存在だが、同時に人間には弱い面がある。まあ、自分という人間を見れば納得できるはずです。僕の書斎にもWebカメラを設置して、誰もがチェックできるようにしたほうがよいかもしれません。
 海外ドラマなどを見ると、役職者らの個室がガラス張りになっていたりします。これもすぐれた仕組みではないかと思います。企業には「社員を正しい方向へ導いていく」という責任がある。信じることは重要ですが、盲信したり、過信してはいけない。そう思うことがあります。ただ、僕の経験では、「信じすぎた結果、困った出来事が起こる」のと「信じなかった結果、困った出来事が起こる」のとでは、前者のほうがはるかにダメージが小さいですね。

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