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第5回 ひとりジェネレーションギャップ

第5回 ひとりジェネレーションギャップ

おはようございます。
 今週末は勝負の2日間。すべきことがたまっている。昨日はほぼ一日フルに使って仕事をしましたが、まだスピードが上がってはきていない。ただ「できそう」という気持ちだけは高まりつつあります。
 このパターン、昔からほとんど変わっていませんね。仕事のスピードが上がるのは最終盤に差し掛かってから。サボっているということはまったくないのですが、前半から中盤にかけてスピードがさっぱり上がらない。そして、締め切り数日前になると、がぜんスピードアップするのです。

過去の自分と共存している

人間の本質は何10年たってもさほど変わらないような気がします。なのに「年齢」というもので、多くの人は錯覚してしまうもの。僕にもさまざまな錯覚があります。
 新入社員時代に大きな錯覚をしました。社会人最初の年、僕は普通に就職しました。会社全体では100人くらい同期入社の人がいたと思いますが、僕の所属する部署で新卒は僕ひとりでした。
 すると、自分以外の人間はみんな先輩ということになる。ここまでは当然の話。今考えると錯覚ではないかと考えるのは、直属の上司がものすごく偉大な人物に思えたこと。別に悪いことではありません。上司が尊敬できるというのはよいことなのですが、無条件で立派、偉大と思ってしまうのは、やはり錯覚の一種でしょう。
 その上司は当時34歳だったと記憶しています。今、自分がこの歳になってみると、30代半ばというのは若手中堅といった位置づけ。中には頭角を現して経営陣に食い込む人もいるでしょうが、イメージ的には若手に近い。ただ、新入社員当時の僕にとっては「自分を導いてくれる人」のように感じていたのです。子供にとって親が絶対的存在なのと一緒ですね。
 そんなわけで、ほとんどの組織ではまだ未熟な部分の多い若手中堅が新入社員を育てる、ということになる。危なっかしくも感じますが、どちらにとっても重要な経験となる。
 新入社員にとって「直属の上司が立派に見える」という錯覚は、上手に活用すべきものではないかと思います。「先輩・上司から学ぼう」という気持ちが高まれば、自ずと自分を成長させていくことができる。逆に先輩・上司の欠点ばかり見てしまうと、なかなか成長できません。中には、例外的に反面教師として学び、立派に成長した人もいるのですが……。

タイトルの「ひとりジェネレーションギャップ」とは、僕が50代になった頃から感じ始めていることです。自分という人間の中にジェネレーションギャップのようなものがある。自分の中に10代、20代、30代、40代、50代、それぞれの自分がいるんですね。そうして、今の自分と若い自分が世代間のズレを感じて、驚いたり困ったり、ときには助けられたりしているのです。
 僕と同じような感覚を持っている人はけっこう多いのではないかと想像しています。これは、昔を思い出してノスタルジックな気持ちになる……といったものではありません。
 むしろ、葛藤や対立、不安や恐怖といったものに近いような気がします。頭の中では、今の自分が10代の自分と議論を戦わせている。あるいは創作意欲旺盛だった20代の自分に今の自分が挑戦状をたたきつけている。大袈裟に言えばそんな感じです。
 単純にギャップを楽しんだり、驚いたりすることもあります。20年前までは嫌いだったことが、今では楽しめるようになっている。あるいは、ものの見方が180度変化しているというようなこともある。
 自分の中にもジェネレーションギャップがあるくらいですから、他人に対してギャップを感じるのは当然と言えるでしょう。今の20代の人たちを見ても、僕は想定の範囲内のギャップしか感じません。むしろ、20代の自分が目の前に現れたら、ものすごいギャップといいますか、驚きを感じることでしょう。
 たぶん、僕以上にひとりジェネレーションギャップを感じている人が世の中にはたくさんいるはずです。昔は学生活動家で今は企業経営者……といった人など、ギャップをどのように捉えているのでしょう? ちょっと気になりますね。

結論としては、「人は変わる」ということです。自分で自分に対してジェネレーションギャップのようなものを感じるほど、劇的に変わる。問題は「どう変わるか」だと思うんですね。
 変わりたくない、変わらずにいようと思っていると、困った方向へ変わっていく可能性があります。少なくとも、年を重ねることで、見た目、体力、寿命は確実に変わっていきます。したがって、50代になっても60代になっても困ることのないよう、自分をよい方向へ変えていかねばならない。
 それは技術を身につけるとか知識を豊富にするといったことだけではなく、ものの見方や考え方、世界観を変えていく必要があると思うのです。
 そうして自分がどんどん変わっていったからといって、過去の自分が葬られるわけではありません。他の人がどうなのかちゃんと聞いたことがないのでわかりませんが、僕の場合に限れば、「過去の自分」も自分の中に存在し続けている。
 それは記憶として存在しているのではありません。今も自分の一部を形成していて、それなりに発言権がある。自分の頭の中で「20代の自分」に意見を求めると、ちゃんと述べてくれることがあります。そうやって、発想力が衰えだしている今の自分をカバーしてくれているのです。
 一番自己主張が強いのは「10代の自分」ですね。10代の頃実現させられなかったことを40年後に形にしようと躍起になっているのかもしれません。僕がいまだに物欲の衰えを知らないのは、10代の自分が50代の僕をコントロールしているからなのではないかと想像しています。

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