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第7回 デスマスクの打破

第7回 デスマスクの打破

おはようございます。
 少しずつ日が長くなってきましたね。空が明るくなり朝を迎えると、「生きていてよかった」と自然に思えるようになります。
 学生時代、変わった友人がいました。「デスマスクを作りたい」と言うのです。生きているわけですから、正確にはライフマスクというべきか? いずれにせよ、自分の顔をかたどったマスクを作りたいということなのでしょう。彼は、シュールな作品を制作するため、夜眠るとき胸の上に石を乗せ、変な夢を見るようにしている・・・といった話もしていました。今も元気でやっているのだろうか? 気になります(名前は忘れてしまったけど)。
 今日のテーマ「デスマスクの打破」は、この話とはまったく関係ありません。当たり前ですね。
 話のメインは「です・ます調」。「です・ます」に対して、「だ・である調」があることはご存知かと思います。両者をどのように使い分けるのか、僕の主観を交えながら書き進めていきましょう。

ちょっと混ざっているくらいがちょうどいい!

「文章の書き方」に関する本やサイトを見ると、「です・ます」と「だ・である」の混在はダメ・・・と書かれています。両者が混在していると「稚拙な印象を与える」というのです。
 確かに、その事実を否定するつもりはありません。僕も「です・ます」で書き進めているとき、基本的には「だ・である」は使いませんから。ですが、原理主義に陥ってはいけないと思うんですね。ちょっとだけ混ざっているというのは、ありなのではなかろうか? 僕はそう主張してみたいのです。
 僕が確信したのは、料理を作っているとき。
 たとえば、30年前から僕の得意料理となっているキムチチゲ。本場のチゲを作るとものすごく辛いわけですが、我が家のチゲには味噌が入ります。どちらかというと、けんちん汁にキムチとコチュジャンが移住してきた・・・という印象。最初は100%けんちん汁として食べ、後半にキムチ等を加えてチゲ風にシフトしていくケースもあります。僕は出世魚ならぬ「出世鍋」と呼んでいます。昨年は、「カレーとシチューを混ぜるとおいしい」という事実が判明。今度はカレーにキムチを入れてみようと思っているところです。
 そんなわけで、混ざっていてもいいんです。むしろ、混ぜることで重層的な味わいになることもあります。ただ、混在にはセンスと好みがある。僕個人の意見としては、「酢豚にパイナップルは入れないでほしい」と思っています。他に、カレーにバナナ(インドネシア料理)というのも僕には厳しいですね。

話を「です・ます」に戻します。
 「です・ます調」で統一することにこだわってしまうと、どのようなことが起こると思いますか? 
 僕の考えるところ、「ですます苦」に陥りますね・・・。本当は使いたくない。なのに、使わなきゃいけない。そんな強迫観念に縛られる。これでは文章を書いていても楽しくないでしょう。何のために文章を書くのか? 自分の中から湧き出してくる欲求に素直にしたがってみればよいのではないかと思います。
 そうすると、「です・ます」の中に「だ・である」がわずかに混じっている場合、逆に2:8で「だ・である」がメインとなる場合もあることでしょう。それが人間の自然な感情といえます。
 親密性のスキルの高い人がどのようなコミュニケーションをとっているか、観察したことはあるでしょうか? 僕はこのスキルが元々低いため、ずいぶん注意深く観察するようにしています。すると、おもしろい事実が判明します。
 初対面というシーンをイメージしてみてください。最初は「です・ます」で会話がスタートします。少し話がほぐれてくると、親密性のスキルの高い人は、ちょっと大袈裟に驚いてみたりする(作為的にではなく、たぶん本心から)。驚く、感心する、感動する・・・。こんなときは「です・ます」が崩れても、相手が不快に感じることはありません。あえて崩すことで、相手との距離感がぐっと縮まるわけですね。その後は「です・ます」の中に、さりげなく「だ・である」を混ぜていく・・・。そんなコミュニケーション法をとっているのではないかと思います。我が社の中にも実にうまい人がいます。

「です・ます」が延々と続く文章では、書き手と読み手との心理的距離が遠いままになってしまいます。少し冒険したほうがよい。
 では、どんなときに「です・ます」を崩すのでしょう? 
1.心の動きを表現するとき
2.力強く主張したいとき
3.スピード感を変えたいとき
4.読み手の緊張感をほぐしたいとき
 他にもあると思いますが、僕の場合はこの4つですね。
 「です・ます」に比べると、「だ・である」のほうが書きやすいのではないかと思います(その人の性格にもよる)。最初から「だ・である調」で書こうと思ったなら、そこにわざわざ「です・ます」を混ぜる必要はありません。
 「です・ます」というていねいな文章表現の中に、「だ・である」という主張の強い語尾が混ざる。このことに、多くの人が心理的抵抗を覚えてしまうのです。けれども、読み手は書き手の本音を知りたいはず。書き手は自分の本心を隠したまま、「です・ます」という無難な書き方を貫くべきなのでしょうか?
 フォーマルな文章であれば、「です・ます調」で統一すべきでしょう。けれども、自分の思いや主張を文章に書き表したい場合は、あえて掟破りな書き方をする必要がある。異論もあるでしょうが、僕はそう思いますね。
 今回は例文を紹介しないまま、書き進めました。今日の文章、すべてが例文だと思ってください。「です・ます」の中に、「だ・である」が混在していることに気づいていただけると思います。さほど違和感はないでしょう?
 違和感を恐れることなく、写真家的文章作成技法では「いいわ感」の表現を目指しましょう。では、また明日!

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