おはようございます。
午前9時半から原稿作成に取りかかる。集中力が増してきた。昼食はにんじんジュースのみ。原稿執筆途中で追加撮影。午後2時半頃、5400字ほどの本文を書き上げる。インデザインに流し込む。インデザイン上で字数調整。いったん出力。原稿の修正と見出し、キャプションの追加。4時、仕事を終える。原稿はもう一本あるのだが、夕方は休日として過ごすことにした。
楽しそうな仕事の背景
昨日書いた原稿は、取材相手からキーワードがいくつも出ていて、見出しの作成にほとんど苦労しませんでした。僕にとっては意表を突かれた言葉もありました。そうした言葉をサラリと口にできる。やはり、仕事を通じて蓄積してきたものがあるのでしょう。
世の中には大変そうに見える仕事もあれば、一見楽しそうに見える仕事もあるものです。学生の場合は社会人経験がないので、「一見楽しそう」と思える仕事をやってみたいと考える。無理はありません。
しかし、「楽しそう」に見える仕事が「楽」であるはずはなく、本当に楽しいと思えるようになるまで大変な努力を積み重ねてることになる。その結果、「楽しい」の中には「愉しい」という意味合いが含まれるようになっていく。単純な楽しさから、深い味わいを持った愉しさに変容していくのだと思います。そこまで自分の仕事を好きになれるかどうか? ここが若手の人にとってはひとつの関門といえるでしょう。
楽しい(愉しい)と思えるかどうかは主観的なもの。もともと「楽しい仕事」があるわけではありません。どんなにおもしろい仕事であっても、楽しいと感じない人もいるわけです。だから、世の中にはさまざまな仕事が存在していて、ある種のバランスがとれている。大変そう、辛そうと思える仕事であっても、案外本人は楽しく仕事をしていたりするものです。
昨日原稿を書いていて思ったのは、成果を生み出している人の過去には大変な努力の積み重ねがある、ということでした。大変な努力をしている人ほど、案外サラリとしているもの。ですから、原稿の中ではそのことについて触れてはいません。取材中にも、そうした話は出てきませんでした。しかし、間違いなく努力の積み重ねがある。
この努力の積み重ねがあるからこそ、リスクを引き受けて大きなチャレンジをすることができる。チャレンジャーな生き方をするには、努力の蓄積量が十分かどうかが決め手となるのではないか? 原稿を書きながら、そんな考えが浮かんできました。
努力不足なままのチャレンジは、当然ながら危なっかしい。多くの人はそこのことを知っている。だから、新しいことにはチャレンジしたがらないという人もいます。蓄積してきた人の場合は「できる」という気持ちになりやすい。ここが大きな違いといえそうな気がします。
しかし、今から努力を積み重ねて、その上でチャレンジするというのでは遅すぎるわけです。蓄積量が不十分であっても、新しいことに挑んでいかなければならない。2021~22年は間違いなくそうしたチャレンジの年といえるでしょう。したがって、「やる」と決めて、努力とチャレンジを同時に行っていかねばなりません。会社の場合は、チームで動いていきますから、自分の不足分は誰かが補ってくれると考えてよい。自分の得意分野を生かして誰かの不足分をカバーすればよいだけ。ひとりでチャレンジするより、チームのほうがはるかにチャレンジャーになれるわけです。
組織の場合、決め手となるのは「できる」「やる」という可能思考のところですね。能力よりも意欲が大事ですし、努力の蓄積量よりも飛び込んでいく勇気のほうが必要でしょう。過去チャレンジャーだった人も、保守的な生き方を何年間か続けると可能思考力が低下していくもの。改めて決断し、飛び込む。そうすることで仕事の楽しさ(愉しさ)を取り戻すことができるのではないかと思います。