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門外漢の原稿作成技法第37回 自己開示と自己表現

門外漢の原稿作成技法第37回 自己開示と自己表現

おはようございます。
 朝8時半、ミーティング。10時、某プロジェクトのミーティング。午後1時半からもミーティング。3本続いたが、頭の中は次第に整理されていった。ちょっとした合間を縫ってスロウ67号の校正。夕方は新入社員研修の準備。あと2講、僕の担当が残っている。最後まで詰め切れず、準備作業は翌朝に持ち越された。

テクニックの落とし穴

僕がスロウの原稿作成に集中していた間、我が社の精鋭4名に新入社員研修第17~20講を担当してもらいました。僕がいなくてもまったく支障はありませんが、どのような講義を行ったのか気になります。去年はZOOM開催でしたが、今年はリアル研修。研修の進め方に違いはあったのでしょうか。きっと昨年よりレベルアップしていたに違いありません。
 今日僕が実施する新入社員研修第21講は「文章作成技術」がテーマです。昨年の資料を確認してみました。「ほぼ完璧」ですね。1時間ほどの講義内容ですが、この話を聞いただけでも目から鱗という人が続出するでしょう(自画自賛しすぎか?)。これは拙著「写真家的文章作成技法」をベースに作り上げたもの。相違点があるとすれば、講義の対象者が編集者であるというところでしょうか。文章力と編集力とでは、求められる能力の範囲に違いがあります。この研修内容をさらに充実させていけば、「文章作成技術」ではなく、「編集技術」となっていくに違いありません。
 今年の新入社員研修用に追加したのはたったの1ページ。「自分をさらけ出す」という項目です。これは「写真家的文章作成技法」を読めば出てくることではありますが、若手の人には十分伝わっていないような気がします。「自己表現」の前に「自己開示」という段階がある。そのことに気づいていない人が案外多い。
 これは文章だけの問題ではありません。他の表現手段においても同じことが当てはまるのではないでしょうか。ただ、文章の場合は言葉を使っている分、自己開示されているかどうかがすぐにわかってしまいます。テクニックだけで自己表現しようと試みている文章と自己開示ありきの文章とでは、当然ながら伝わり方に違いがある。
 ここは人生経験を積まねばわからないところなのか、それともセンスの問題か。20代でもちゃんとわかっている人がいる一方、一生わからない人もいます。そもそも「自分を出してはいけない」と考えている人もいるのです。自分を出してはいけない文章も当然ある。ですが、その中でギリギリまで自己表現を試みる。それが仕事というもの。誰が書いても同じ文章では、そう遠くない将来、AIに仕事を奪われることになるでしょう。
 自己開示といっても、「涙ながらに自分の半生を語る」といったものではありません。単純に「自分を出す」というだけの話。出すのは建前の自分ではなく、本心の自分。すべてを出す必要はありません。全部出したら、字数が足りなくなってしまいます。わずかでもいいから、書き手がどういう人間なのか伝わるような部分が文章には必要なのです。どのような思想・哲学に基づいて書かれているのか。そこが希薄だと、取材相手の言葉をなぞるだけになってしまう。誰が書いたのかわからない文章となる。
 世の中には当たり障りのない文章であふれています。僕としては人工甘味料で味付けした文章ではなく、素材の旨みが引き出された文章、あるいは出汁のきいた文章を読みたいと思っています。自分を前面に出しすぎると読みにくくなります。ほどよいバランスで自分を出す。
 テクニックに依存した書き方に慣れてしまうと、自分を出すことに抵抗感を覚えるようになっていくはずです。20代、できれば新入社員のうちに、自己開示→自己表現という手順を身につけてほしいと思っています。

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