
おはようございます。
午前9時、20年近く前に訪れたことのある場所へ。これも僕の20年周期説と関係があるのか? よくわからないが、あっという間に用事は完了した。帰宅後、日本自費出版文化賞の一次審査に取りかかる。応募作が多かったと聞いているが、送られてきた本の点数も例年より多い。これは相当な覚悟を持って審査に臨む必要がある。大まかに分類し、2、3冊に目を通すだけで昼となった。12時45分出社。同友会とかち支部S事務局長と会員企業訪問。3社をまわり、それぞれじっくり話を伺うことができた。4時45分帰宅。調べ物等。「夏」を感じる一日だった。
素材の味わい
このところ、写真について考える時間が減っています。改まって「写真とは何か」と考えることは滅多にないのですが、さまざまな出来事を写真と結びつけて考えるというのが僕の思考パターン。それが、昨年あたりからめっきり少なくなっている。コロナ禍の影響でしょうか?
今の時代、写真は誰でも撮ることができます。40年くらい前にも同じようなことが言われていました。しかし、その頃よりもはるかに撮影のハードルは低くなっている。ハードルはないと言ってもよい。このため、ちょっとセンスのある人であれば、写真作品らしきものを生み出すことができる。専門的な勉強をしてこなくても、「プロ」と名乗ることができるでしょう。
一方、機材の進歩に比べると、人間の写真を見る目(それ以前に風景を見る目)は進歩しているとは言えません。風景から何かを見いだす力も、写真から何かを読み解く力も、40年前からほとんど変わっていない。そうなると、著しく進歩したカメラ・機材を通じて生み出されたハイレベルな写真を見て、表層的なところから影響を受けてしまう自分がいるわけです。僕は43年前から、穴が空くほど世界の写真の名作を見続けて、「これぞ写真」という確固たる考えを持っているつもりではいるのですが、それでも何かしらの影響を受けている。だから、あまり写真を見過ぎないようにしよう……と考えてしまいます。あまりいい傾向ではありませんね。
そんな背景があるためか、僕の写真の撮り方も非常にあっさりとしたものとなってきています。料理にたとえれば、塩コショウ程度。超薄味です。見たそのまま、という撮り方になる。ついでに、自分の目の解像度も年齢とともに低下してきていますから、細部にこだわらない撮影の仕方に変化してきました。薄味に加え、素材の雑味が感じられる写真。それがよいのかどうかわかりません。きっと、10年後には「これではいけない」と思って、スパイシーな写真を撮るようになるのではないかと勝手に想像しています。
ただ、僕が40年前から変わらない考えのひとつは、「写真は風景を見る手がかり」であるということ。さまざまな写真があってよいわけですが、僕が生み出したいと思っている写真は「手がかりとしての写真」なんですね。ふだん目に映ってはいるが、存在を意識していないようなものに目を向ける。意識していても、その被写体に別な解釈を試みる。それが僕にとっての「塩コショウ」ということになります。今はかすかに味付けするのみ。
ファストフードのハッキリとした味に慣れてしまった人には、素材の雑味といってもよくわからないでしょう。10年ほど前、ある農業者を取材した際、畑から引き抜いたニンジンを食べさせてもらって気づきました。これがニンジンの味だ。土も一緒に食べたと思いますが、まさにニンジンの味がしたのです。その瞬間、僕の「ニンジンの味」に対する記憶が書き換えられることになりました。もしかすると、子供の頃に持っていた味の記憶に戻ったのかもしれません。
畑から引き抜いたばかりのニンジンのような写真。素材そのままというわけにはいきませんが、最小限の味付けで写真にする。その写真を「料理」するのは、写真を見る側の仕事ではないかと僕は考えています。すでに料理された「写真作品」を味わうだけでは、写真の楽しみの半分だけしか知ることができない。本当の写真の醍醐味は、写真家が提示した映像に対して、見る側の解釈が加わり、独特の味わいが鑑賞者の頭の中に広がっていくところにあるのではないか? 写真は写真家の仕事だけでは完成しない。ずっと、そう思い続けています。