
おはようございます。
所沢はさすがにホットですね……。そう書こうと思ったら、4月30日の帯広が28度を記録したことを知りました。昨日の所沢とほぼ同じ気温。ただ、こちらのほうが湿度は高いかな。少し蒸しています。
ただ、午前中は比較的涼しく、所沢の自宅での片づけ作業が進んでいきました。思わぬ発見物があって、案外おもしろい。写真集、LPレコードの中にはお宝のようなものもあった。ものすごく古い写真(作品の一歩手前のもの)も。これはスキャニングして、何かに使うことができそう。
掘り出し物と思ったのは、売れ残ったTシャツ。コンディションがいい。変色や傷みはほとんどなかった。これは持ち帰ることにしよう。
ひとつ悩んでいるのは、引き伸ばし機の扱い。ベセラー45MXTとラッキー90MDの2台。どうしよう? 捨てるには忍びない。引き取り手がいれば差し上げたいのだが……。
作業は午前中でだいたい目処がつきました。午後は買い物。僕は短パンを購入。高温多湿にはこのスタイルしかない。
迷走の結果の自社ビル
今日は西荻窪で作業を行う予定になっています。それほど荷物は残っていないとのことですが、久しぶりに訪れるため、どんなふうになっているのか気になります。
僕らは1987年頃から西荻窪に事務所を構えて仕事をしてきました。最初はフレンドリバコという狭いマンションに事務所を持ち、次は西荻窪スカイハイツというところ。ここは同業者のS氏と共同で事務所にしようと考えたのですが、後になってから「事務所使用は不可」ということが判明し、短期間のうちに僕らは退去。以降はS氏の自宅として使われることになりました。
その後の記憶はちょっと曖昧です。西荻窪駅南口の第二松栄ビルと北口のレジェンシア西荻のどちらが先立ったのか忘れてしまいました。ただ、会社設立時の事務所はレジェンシアのほう。社名を決めたのはグランパスドリームという洋風の居酒屋。ここに設立時のメンバー3名が集まり、ひとりずつ自分の気になる漢字一文字を掲げ、「遊文館」という社名が誕生することになったのです。1989年(平成元年)7月設立。
その後、第二松栄ビルで2部屋借りることとなり、広いほうを事務所、狭いほうをスタジオとして使っていたと記憶しています。モデル撮影も何度か行ったことがありますが、やはり狭かった。通常はスニーカーなどの商品撮影や料理撮影をすることが多かった。著名なタレントもわざわざ西荻の遊文館までやってきて、ここで料理をつくっていきました。仕事は楽しいが超ハード。そんな生活。そして、昨日の所沢自宅という話につながるのです。
1995年はハイテクスニーカーブームの年でした。その頃、西荻北口にあったフォトサラダというDP店を引き継ぐこととなり、気軽に継いだもののまったく売上が上がらないという困った事態に陥りました。そこで、スタッフのスタイリストがセレクトショップをやりたいと言い出し、ハイテクスニーカーやシルバーアクセサリーなどを扱うショップを開店。妙な世界へ足を踏み入れることに。
当時、経営指針とか経営計画といったものを知っていればよかったのですが、とにかく思いつくまま行動していた。泥沼にはまるかもしれないと不吉な予感を感じながらも、事業領域を拡大させていき、スタッフの人数も増えていくことになりました。1996年、エアマックス96が当たり、遊文館の業績は急拡大。
バブル後遺症から、業績好調な企業は地元にほとんどありませんでしたから、地元金融機関からは高評価を得ていたようです。儲かっているように見えたのでしょうか? 西荻北口徒歩6分(5分だったかな?)の土地を紹介されることになったのです。
長年高い家賃に悩まされてきた僕らにとって、自社ビルという言葉は魅力的なものに感じられました。所沢に自宅を建てたとはいえ、事務所は西荻のまま。月額家賃プラス10万ちょっとの金額で事務所が自分たちのものになる。次第に心が動かされ、まずは土地を購入。大きな決断でした。
普通は「自社ビルを建てると会社が傾く」といわれますが、僕らの場合は土地を購入した頃から業績が怪しくなっていきました。ハイテクスニーカーブームが終わり、ローテクに向かいつつあった。しかも、ブーム末期には業者から偽物をつかまされるトラブルもあった。雑誌・広告で稼いだお金を商品仕入に回す。そんな状態になっていった。
しかも、土地だけでは何も生み出しませんから、建物を建てなきゃ……と僕らは考えたんですね。当然です。そして、実際に建てることになった。土地代+建設費がずしんと響くことになりました。1997年のことです。
最初は地下1階、地上3階にしようと考えていましたが、水が出ることがわかり、地下構想は断念。地上4階の建物に。2階が事務所、3階はスタジオ、4階は休憩室。実際のところ、4階は自宅スペースとして使われることになりました。所沢は別荘という位置づけのまま。ひたすら働いて、夜は居酒屋で夕食という日々。
その頃になると、雑誌・広告制作よりもショップ関連の仕事により多くの時間を割かねばならなくなっていました。仕入れてそのまま売るだけという訳にはいかず、コンバースのキャンバスオールスターを染めたり、プリントTシャツをつくったり、展示会に出展するなど、本業からかけ離れたことばかりやっていた。これはおかしい。そうわかってはいるものの、どうにもならないという状態が2、3年続きましたね。そういうタイミングに、ソーゴー印刷後継の話がやってきたのです。この不本意な状況を打開するには絶好のチャンスでもありました。
実際には3年間しか使わなかった西荻窪の遊文館ビル。とはいえ、悩み多き時代を過ごした思い出深い建物です。足を踏み入れるのは今日が最後となるでしょうから、できるだけ写真を撮ってこようと思います。