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写真論14 最小限の技術

写真論14 最小限の技術

おはようございます。
 午前8時半、帯広畜産大学へ。8時45分、とかち学の講義を行う。畜大、小樽商大、北見工大の学生に向けての講義。リアル参加は10数名といったところ。オンライン参加者は60数名とのことだが、学生の顔が映っているわけではないので、参加者数は不明。講義のテーマは「急変する世界・地域の中で自社の強みをリフレーミングする」というもの。「自社」を「自分」に置き換えて考えてほしいと思って話をする。10時15分終了。11時、ノースランド。帯広ロータリークラブの第3回クラブ協議会。12時半、例会。ガバナー公式訪問例会。2時、自宅でミーティング。3時半からもミーティング。講義、会議、例会、ミーティング×2で一日を終える。

制約を受け入れる

今朝は早朝から写真選びをしていました。WEBサイト用のものはフォルダごと送って完了。もうひとつ、「わくらす」用の十勝の四季の写真選びには、ずいぶん時間がかかりました。僕がいいと思う写真と編集者がいいと思うものには、ずいぶん隔たりがある。さらに、読者にいいと思ってもらうにはどんな写真を選べばよいのだろう? いつもここで考え込んでしまいます。当然ながら撮影者よりも編集者よりも読者の価値観が優先される。
 畜大でもそれに近い話をしました。地元の人が「当たり前」と思っているもの中におもしろいもの、価値のあるものがある。それは北海道に生まれ育った人には気づかないことがあり、移住者や旅行者から教わることが案外多い。これは取材でも感じることですし、雑誌の仕事をしていない人でも多くの人が気づいているに違いありません。
 それゆえに、よく「よそ者の視点」といった話が出てくるのですが、その反対に「長年住んでいるからこそ感じることのできる価値」もあるわけです。少ないとは思いますが、生まれてから一度も道外を出たことない人もいます。そうした人の価値観は世界中を旅した人とは、自ずと違ったものになる。どのように違うのか、興味深いところです。
 関係あるようなないような話になりますが、この道一筋という人とさまざまな職歴を持っている人とでは、見える風景にずいぶん違いがあるような気がします。取材では「10年継続してようやくプロ」といった話をよく聞きます。僕の経験から言っても、数年のキャリアでは表面的なところしか見えてこない。見栄えのよい写真を撮ることはできても、写真で自分の思想を伝えるのは困難でしょう(特別な才能を持つ人は別)。
 デジタル化や機材の進歩によって、写真を撮ることはものすごく簡単になりました。簡単さゆえに、意味ありげな写真を撮ることも、平凡な風景を特別な風景に変換することも容易になった。ここに、僕はちょっとした落とし穴のようなものを感じています。僕も、たまにこの落とし穴にはまりそうになる。デジタルカメラに、あるいはフォトショップに操られてしまう自分を感じることがあるのです。
 使用する技術をいかに最小限にとどめるのか。デジタル写真時代にはそのような制作態度が求められるのではなかろうか? フィルム写真時代に使っていた技術だけに留めておく。フォトショップによる作業では、トーンカーブと焼き込み・覆い焼き程度。かつて暗室で行っていた作業をデジタルに置き換えるだけ。これを基本とし、やむを得ない場合のみ若干の技術を使う。今のところ、僕はそのようにしています。たまに禁を破ると、どこか不自然なものを感じてしまいます。
 これはきっと、45年くらい写真を続けてきたからなのでしょう。保守的な考えにとらわれる必要はまったくないのですが、自分にとって「写真とはこういうもの」という考えがあると、そこからはみ出すことは困難となる。これを不自由と感じることもありますが、写真とは元来制約の多い表現手段。制約があるからこそおもしろいというのが、僕の写真に対する考え。到底使いこなせないような多機能なカメラを手にすると、余計そのような気持ちになってきますね。

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