こんにちは。
昨日は午前中ゆっくり過ごす。さらに昼寝。あまりにゆったり過ごしすぎたためか、重要なことを忘れていた。十勝ファーマーズマーケットが開催されていたのだった。昨年中止となったため、2年ぶりの開催となる。午後1時35分、緑ヶ丘公園に到着。ほとんど売り切れという店もある中で、しばし買い物を楽しむ。コロナ感染対策のため、間隔を空けてテントが立ち並んでいた。例年は一直線に店が並ぶのだが、今年はL字型の配列になっている。野菜や草木、加工品、ガラス製品等を購入。3時頃帰宅。少しだけパソコンに向かうが、ほとんど仕事になっていない。9時頃就寝。
今朝は自宅の梅の収穫。例年の1/4くらいの収量。数が少ない分、実が大きい。
強引矢の如し
20代の頃にはさほど感じなかったのだが、40代以降になると「光陰矢の如し」と思うことがある。年末はもちろんだが、月末でも「ひと月はあっという間だな」と思ってしまう。我が社のみんなの日報を読むと「もう金曜日」といった記述がときどき見られる。一日を無為に送らぬよう、お互いに気をつけたいものだ。
みんな一日を有効に使って、意味のある仕事をしよう、付加価値を生み出そうと考えているに違いない。だが、さまざまな事情やちょっとしたアクシデントによって、時間を奪われたり、不本意な時間を過ごすことになることがある。
僕の見るところ、意志の弱い人ほど外的要因によって左右されやすく、その結果、意味の薄い時間が増える傾向にある。意志が弱いわけではないが、人がよすぎる人にもそうした傾向がある。他人の悩み事を聞いているうちに1時間、2時間使ってしまうという人もいるに違いない。必要があって相談に乗るのはよいが、不満や愚痴を聞く時間はお互いのためにならない。「必要」「不要」「有害」の区別をつけることは、人生を意味あるものとするために必要不可欠なスキルといえる。
光陰(月日)でさえ矢の如しなのである。無駄と思われる時間も人生には必要だが、時間が何よりも貴重なものであることを、僕らはもっと意識しなければならない。
僕の印象では、時間を有効に使っている人には共通項のようなものがある。表現の仕方や洗練度には個人差があるのだが、僕は「ある種の強引さ」を感じることがときどきある。
たとえば、意味のほとんどない会話が延々と続きそうになると、瞬間的に話題を変えたり、打ち切ったりする。あるいは、その場からすっといなくなる。僕には真似できないレベルの鮮やかな技といえよう。その技が決まった瞬間、僕は「強引矢の如し」という言葉が頭に浮かぶ。よく考えると、強引な手法なのだが、矢の如くあっという間に技が決められてしまうため、ほとんどの人は強引だとは気づかない。むしろ、意味の薄い時間が断ち切られたことを喜ぶ人が多いはず。会話やミーティングに限らず、日常業務の中にはこうしたちょっとした強引さが必要に違いない。
強引なタイプには、実は2種類ある。一つは「強引マイウェイ」タイプと僕は名付けている。Going My Way。他人はどうあれ、我が道を行くという生き方。こうしたタイプの人は組織にはなじみにくい。したがって、もう一つの「強引矢の如し」タイプが望ましいと僕は考えている。後者のタイプの人と一緒に仕事をすると、成果が生まれやすい。
企業経営の前提となるのは、永続性、すなわちゴーイングコンサーン(Going Concern)である。Going=強引と決めつけるつもりはまったくない。だが、企業経営では節目となるタイミングで、存続のための強引さが求められることがある。特に、コロナ禍のような非常時では、一つの方向へ無理矢理突き進まねばならないともあるだろう。
問題は強引な技をかける際の熟練度、あるいは技の切れ味。鮮やかに決めなければ、ただの頑固者と思われる。技の理想レベルは、誰も強引とは感じないこと。技を決められたことを誰も知らないまま、企業変革が進んでいく……。残念ながら、僕にはそのような技の経験はまだない。